ペルソナー!

先週秋葉原に救いようの無いバカが現れたというニュースを聞いた時、自分は反射的にキレた。「こんなことをしでかした奴は一刻も早く死ぬべきだ」と思った。

  • 休日に楽しく遊びにきていたはずの人たちを酷い目に合わせた、という義憤
  • ちょうどその日、頭の悪い銃乱射映画を見ていて、自分の不謹慎気味な趣味を「不謹慎です」と断定されてしまったことに対する逆上
  • 自分の趣味的に、秋葉原に行くような人たちは自分に今後何か利益を与えてくれる人である可能性が他の地域より高い。亡くなられた方々は、もしかしたら、後にとても面白い小説を書く人であったかもしれない。漫画を描く人だったかもしれない。ゲームを作る人だったかもしれない。粋なブログ記事を書く人だったかもしれない。その全ての可能性を七人分も潰されたことに対する恨み

大体こんなあたりに分類できる感情がない交ぜになって、先週の自分は血液の温度を上げていたのである。あと、基本的に他人に怒りを覚えるのは健康に悪いので、「せっかくの休日に『死ねばいいのに』なんてことを考えさせたことに対する憎しみ」も少しある。何もかもが自分の癇にさわる事件だった。犠牲者の方々には心の底から冥福を祈る。


それが1週間経って、知りたくも無い犯人の背景を聞いてしまってから一つ加わったことがある。
犯人は言いたくないが、自分と少し似ていた。対人関係が不得手であることや、あまり自分が好きでは無いこと。一言で言うと、典型的なオタク気質であるところが。
共感はしない。する必要も無い。しかしそれでも、このクソ野郎と自分には、明らかにいくつかの共通点が見出せる。


「それはつまり、自分にもこいつと同じことをやってしまう可能性があると言うことなのではないだろうか」ということを考えてしまうのだ。


もちろん、今自分は全くそんなことを考えてはいない。犯人に対する怒りは溢れんばかりに満ちている。だが、一年後の自分が、人殺しをしないと言い切れない。自分に限って今後死ぬまでそんなことはしないと断言できるだけの根拠が、自分の中に見当たらなかったのである。犯人は「世の中下らん」とかそんな誰でも考えるようなしょうも無い動機で犯行に及んだという。そんな理由で人を殺せる奴は異常だと言うことはできる。言い換えて、しかしそんな理由でも人はきっかけさえあれば人を殺せると考えるのは、京極夏彦の読み過ぎだろうか。
先週の今頃、事件の報を聞いたとき、対岸の火事に対して義憤に燃えた自分は、「正しいことの白」の中にいると思っていた。不謹慎な趣味に関しても、あくまで自分が白の中だったからこそ安心して楽しめたのだ。この犯人はそんな自分の立つ場を、静かに壊して行ったのである。勝手ながら今の自分には、それが一番許せない。