真の「失敗」とは開拓の心を忘れ困難に挑戦する事に無縁のところにいる者たちのことをいうのだ

明日から洞爺湖サミットが開催されることもあって、連日のニュースで開催の意義やら地元の何やら日本の立場やらいろいろと喧しく報道されている。
その中で、現地に駐留している警察官に関する報道になると、顔を上げてニュースに見入ることが多い。と言うのは友人で警察官になった奴がいて、ちょうどそいつが現地に派遣されているためである。

大体にして報道はサミットに対して否定的であるので、彼ら警察官に対する報道も、税金がどうとか、観光客が寄り付かないとか、地元の人たちが不安がっているとか、そういう風にどこか彼らを厄介者として見る向きが強いように思われる。そこで自分としては、内心忸怩たるものを感じたりするのだが。
しかし、もし自分に警察をやっている友人がいなかったら、どうだろうか。もしくは、洞爺湖町近辺に住んでいる知り合いがいたら、どう考えるだろうか。ほぼ間違いなく、警備にあたるテレビの中の警察一同に薄っぺらな不審の目を向けていたと思う。こういう自分の、いかなる時にもミクロな視点でしか物を見られない頭の悪さには日々愕然とするが。
自分の思考は明らかに、俗に言うネトウヨよりであると思う。それは己で判断と言う物ができない自分にとって、とりあえず悪そげな点を指摘できることが酷く耳障りのいい「大義名分」に感じられるからだ。多分。
しかし、今回のように、普段なら深い知識も無く文句だけは言える対象の中に、自分の身内がいるような場合はその大義名分が簡単に崩れてしまう。環境問題や外交なんちゃらなど、一見難しく、自分に対する直接的な影響が判りづらいものよりも、「そこで確かに頑張っている知り合い」の方が自分の中で順位を上に置いてしまうのだ。「それはそれ。これはこれ」と口で言ってはみても、自分の感情に逆らって俯瞰で物を見るところまでは、到底行き着ける気がしない。

物事は常にいくつもの視点から見ることができるのは当然のことだが、たまにいつも見たがっている視点と別の角度からの視点で見ざるを得なくなった場合、自分の足元は本当に頼りなくぐらつく。色々考える前に、「とりあえず友人が無事に戻ってくればいい」のところで思考停止してしまうのも我ながら情けないし、何とかならんものかと思うわけだが、恐らく一生このまま自分の頭の悪さは治らんのだろうなあと切ない気分に浸ったふりをしながら、とりあえず友人頑張れ。